地元の音楽を作ろうとした以前は、何がしたかった?

11月に開催した『音づくりのアイディアを視覚化する』個展では、8年前大阪住之江に在住時に目指していた世界観の表現に特化することになった。

当初は直近の東京移住後まで書きためた内容を、新たに作る予定だった作曲と造形作品とともに展示するつもりだったが、生活の変化と療養が重なり予定通りに制作が進まなかったことから、ずっと昔の後悔の1つだったことに目を向けて形づくった結果となった。

その後何か新しい動きがあったかというと、水面下では進めているがまだ公にはできないし、正直言ってほとんど形になっていない。
作品を販売するネットショップを始めようとしているがまだ準備中だ。

今月になって入手したシンセサイザーを破損する大失態や精神障害扱いされる妄言を受けたり、相次ぐ意図しない事態を一時は収集できなくなりかけていた。
何人かの友人達に助けられながら、ようやく今は睡眠時間を最優先にして休息に勤めている。
燃えたぎる創作意欲があっても心身ともに思うように動かないようでは、エネルギーの向ける先がわからなくなり無駄に消耗するだけなので、まずは自分自身の根本的な欲求を見つめなおす時間に充てることにした。

個展では生まれ育った大阪住之江〜西成に居た頃の臨海地域音楽のアイディアや収集アイテムをできるだけ触れて感じてもらえるようにした。
ここであえて取り上げていたのは、2004年の故郷大阪で巡りあった偶然の再発見から、倉庫でクラブDJ達と共同生活をしていた2011年頃に手がけていた話題だった。

じゃあそれ以前は、何がしたかったんだろう?

 

完全に忘れていた。

というか思い出したくもなく、振り返る価値もない暗黒時代と位置づけていたから、10年前ですら全く頭になかった話である。
住之江時代も中盤〜終息までは金銭的に緊迫していた生活から抜け出せなかったため、あの頃は目先の作品実現と借金返済しか頭になかったのではないか。

あれだけ地元で音楽にこだわっていたのは、10代で嫌ほど経験した失敗続きの屈辱を上書きするためで、故郷を好きになる意味づけをして劣等感を払拭することが大きな真意だった。

ただ2018年の今は、そんな意味づけなんて全く意味がないことだと、東京で個展を終えてようやく確認できた。

あの頃もっと早く、会うべき人に出会えていたら、長い時間を捨てるような間違った道に進むことはなかったのかもしれない。
未だに過去の貧乏思考から抜けきれないと感じることも多くあり、日常生活に影響を与えていることも多々あった。

あえてその心理パターンの履歴に目を向けると、上書きしたがっていた10代の空白期間に、俺の魂が本当にやりたかったことがどうやら今も錆びついた意識の奥底に潜んでいる気がしている。

地域音楽に取り組む前の2004年は死にかけたことがあり、詳細は書かないが、あの時家族には東京に住むと言ってたんだった。
大阪には居場所がないと、間違いなく感じていた。

しかし移住願望は一時期親しかった関東方面の人間関係の破綻で叶わず、大阪に居続けることになった。
西成の実家暮らし3年、1人暮らし10年間(うち共同生活1年半)を住之江〜寝屋川〜東大阪と大阪府内を転々としていたのだった。

13年経って2017年に、まさかの東京移住決行するとは、それまで考えもつかなかった選択肢だ。
ずっとその日暮らしで精一杯だったから、大阪から遠くで生活する自分なんて全くイメージできなかった。

心の奥底では積み重なった過去のしがらみからも自由になって、あとは資金調達を順調に回復させて、好きな表現に戻したいと切望してたから。

葬り去りたかった10代の全く友人が居なかった時代に遠目で見ていた遠い世界へ、そろそろ20年ぶりに足を踏み入れても良いのではないか?

写真: 堺浜シーサイドステージと呼ばれる新日鐵堺製鉄所にあった熔鉱炉の遺構。2008年頃本人撮影。

 

しまひろふみ

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